いま最も輝いているアジア人プレイヤーといえば、ソン・フンミンが真っ先に挙がるでしょう。
欧州5大リーグで華々しい結果を残している韓国の英雄は、トットナムで抜群の存在感を示しています。
ドイツの移籍専門サイトによる彼の市場価値は9,000万ユーロ(116億円)。
レジェンドプレイヤーとして、アジア史にその名を刻むのは間違いありません。
とは言え、コアなサッカーファンの心には、一人の男の記憶が今なお刻み込まれています。
中国メディアが伝える中田英寿という男
29歳という年齢は、スポーツ選手にとっては最も脂が乗っている時期。
プロフェッショナルの価値が一番高いとも言えるかもしれません。
しかしながら、才能を発揮して走り続けられるのは、ほんの一握りの選手のみ。
大半のプレイヤーは現役続行か否か、人生の岐路に立たされます。
中田英寿もその一人。
2006年のドイツワールドカップでブラジルに敗戦すると、30歳を待たずして引退を決意しました。
理由は、
「自分が好きなサッカーをやってて、その“好き”の部分が楽しめなくなった」
から。
怪我が原因でも、体力が衰えたからでもありません。
サッカーへの愛情が軽薄になり、人生を浪費していると感じたからです。
中田英寿の人生観とは何のでしょうか。
申し分ないキャリアを紐解きながら、彼が歩んできた道のりを見ていきましょう。
華麗なる現役時代
1977年1月22日に山梨県甲府市に生まれた中田英寿は、幼少期から既に唯一無二の存在でした。
初めて日本代表(U-15)に選出されたのは14歳の時。
類まれなる才能を一気に開花させて、その後もU-17、U-19と全ての年代カテゴリーで活躍します。
若くして豊富な海外経験が、将来の経歴を重ねる上での素地となりました。
高校を卒業後の1995年に、Jリーグのベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)に入団。
当時Jリーグに加盟する全12クラブのうち、11クラブからオファーがあったと言われています。
この時には既に一流プレイヤーの仲間入りを果たしていたのですね。
ルーキーイヤーは26試合に出場して8ゴールを叩き出しました。
まずは日本で着々と実績を積み上げていきます。
サッカー人生の転機1つ目は1998年。
日本代表が初めてワールドカップに出場した年です。
残念ながら、3戦全敗で予選リーグを敗退しましたが、一際輝く底力を見せた中田英寿に、欧州の関係者が注目を寄せます。
そして大会が終わると、イタリアのペルージャへ電撃移籍。
レジェンド・三浦知良に続く2人目のセリエA日本人プレイヤーとなりました。
(本人は決意していたであろう)片道切符の海外キャリアがスタートします。
世界へ羽ばたく
まずは衝撃のデビュー。
開幕戦のユベントス戦でいきなり2ゴールを決め、彼の名が一気に知れ渡ります。
シーズンを通じて、ここぞの場面で本領を発揮し、多くの記憶を生み出していきます。
1年目は33試合10ゴールを記録し、ペルージャのセリエA残留に貢献しました。
翌1999-2000シーズン途中に強豪ローマへ移籍。
トップ下のポジションを王様・トッティと争いながらも、時にはボランチを熟しながら、要所要所でキープレイヤーの地位を確立します。
外国人枠が限られている中、交代要員としてベンチを温める日も少なくありませんでした。
それでも因縁のあるユベントスとの大一番で活躍するなど、2000-2001シーズンは15試合2ゴール。
チームはスクデットを勝ち取り、セリエAの優勝メンバーに初めて日本人の名が刻まれました。
2年間のローマ生活を経て、次に向かった場所はパルマ。
出場機会を増やすことが目的でした。
ローマ→パルマへの移籍金は約33億円で、当時のアジア人プレイヤー最高額。
新天地では背番号10を付け、クラブの中心プレイヤーとなり、イタリア杯の優勝へと導きました。
中田英寿の選手生活・実績でピークを迎える時期と言えるでしょう。
2度目の出場となった2002年の日韓ワールドカップ。
日本のエース・不可欠な存在・絶対的なキャプテンという国民の期待を背負って大会に挑みます。
日本代表は中田英寿を中心とした組織力で予選を2勝1分で通過し、初の決勝トーナメント進出を決めました。
トルコ戦では敗れたものの、ベスト16という記録は、日本サッカー史に大きな形跡を残しています。
その後はイタリアのクラブを渡り歩きますが、あまり目立った活躍ができません。
2005年にプレミアリーグのボルトンに移籍して、コンスタントに試合に出るものの、彼らしさは影を潜めていきます。
この辺りからでしょうか、サッカー人生の引き際を考えていたのは。
選手生活にピリオド
そして、ドイツワールドカップです。
サッカー生活にピリオドを打つ大会となりました。
予選の全3試合でフル出場を果たすも、結果は1分2敗。
2大会連続の決勝トーナメント進出は達成されませんでした。
最終ブラジル戦で終了のホイッスルが鳴った瞬間、膝を立てて仰向けになった中田英寿。
この写真を忘れている日本のサッカーファンは一人もいないでしょう。
プレイヤーとしての最後の姿です。
試合後、公式サイトで引退を表明されると、世界中に衝撃が走ります。
「まだ現役でバリバリやれるでしょ」
「これから更に飛躍するヒデを見たい」
「日本にはまだヒデが必要だ」
29歳の決断、突然の引退。
充実したサッカー生涯であっても、「好き」と感じられなければ、それで潔く辞める。
ある種の生き様を感じますね。
引退後の活動
スパイクを脱いだ中田英寿は、自分の目で世界を確かめるために、100ヵ国以上を旅します。
訪れた先々で、子どもたちと楽しそうにボールを蹴り合いました。
プレイヤーとして「好き」では無くなったわけで、サッカーの話をしたり、各地でボールに触れることは続けています。
また世界一周の旅が終えると、ハーバード大学で進学してデザインを学び始めました。
ところが、様々な国や地域で人々と話す中で、ある弱点に浮かび上がります。
「日本について質問されても、上手く答えられない」
世界中を旅するがゆえに、自国に対する知識が身についていないことに気づかされました。
そこで今度は帰国すると、日本中を歩き回ります。
北海道から沖縄まで、全都道府県を制覇。
旅先では地域で暮らす住民や異例なバックグラウンドを持つ人など多くの出会いがあり、喜びに満ちていました。
農夫と種をまき、苗を植え、収穫する。
自然からの贈り物を体験する中田英寿は、第二の人生を満喫しています。
一方、ファッションに対する興味は失われていません。
デザインを学んだことからも分かるように、引退後も積極的に関わっています。
44歳になった今でも、現役さながらのスタイルを維持。
かつて「アジアのベッカム」とも呼ばれ、女性を虜にさせた男は、ファッション界でも活躍中です。
ピッチを離れて15年。
彼の人生がサッカー中心であることは揺るぎません。
サッカー史に偉大な功績を残した引退選手に贈呈される「オール・タイム・レジェンド」を、2014年にアジア人として初めて受賞。
現在はIFAB(国際サッカー評議会)の諮問委員を務める傍ら、スペシャルオリンピックス国際本部グローバルアンバサダーとして、世界中の子どもたちにサッカーの良さ・楽しさを伝えています。
グラウンドで走る光景が脳裏に焼き付いている、世界が認めた日本人プレイヤー・中田英寿。
正真正銘の「アジアの兄貴」は、今もなお、独走し続けます。
※本記事は下記サイトを元に構成・翻訳しています。
■参考サイト(中国語)
都说孙兴慜是亚洲第一人,大家似乎都忘了他入选过金球奖候选